| 医学怪文書大全〜純文学の館〜 |
医者国 |
| 以前挿し絵を描いて頂いた南斎先生宅を訪れた。先生は外出中で、奥様が「ご退屈 |
| でしょう」と、一冊の本とレモンティを持ってきて下された。先生が帰宅されるまで |
| 読んで待つことにする。 |
| 著者の山端康鳴は悩減賞を『医者国』で獲得したと〈まえがき〉に記されている。 |
| 《国境の長いトンネルを越えると、そこは、医者国だった》という書き出しで始まる。 |
| 鳥村は列車の中で人差し指の感傷にひたる。 |
| 《結局この指だけが、なまなましく覚えている、あの感触で今も濡れていて、鼻につ |
| けて匂いを嗅いでみたり、なめてみたのだった》 |
| 鳥村は人差し指で何をしたのか。 |
| 列車から降りると、待合室の前で白衣を着た騎子が待っていた。 |
「こいつが覚えていたよ」 |
| 「これが覚えていてくれたの?」 |
| 鳥村と騎子はただならぬ関係らしい。 |
| この国は医者ばかりが住んでいて、 様々な病気を患った人々が、鳥村が乗ってきた |
| 列車に乗って治療に訪れる。 鳥村は、また一年ぶりに、この国に勤めることになった |
| のだ。 |
| 「あなたはあの時、ああ言って行ってしまったけれど、やっぱり帰ってきてくれたの |
| ね。あのとき、誰も笑やしなかったわよ」 |
| 意味深な会話が続く。 |
| 「私、日記をつけているの。その日診た印象深い患者さんの状態を書いておくの…。 |
| あとで読むと、とても参考になるわ」 |
| さすが『医者国』の住人。心掛けが違う。 |
| 「煙草を止めて太ったわ」 |
| 医者のくせに煙草をすうのか。 |
| 《二人は畑沿いに歩いた。急斜面を登ると島村の宿舎があるはずだった。 国境の山々 |
| は夕日を浴びて鈍く光り、宿舎の方向は紅葉で覆われていた》 |
| 医者国は風光明媚であるらしい。 |
| 「まだ私のせいだと思っているのね」 |
| 「そうは思わないさ」 |
| 「悲しいわ……わたし、わざと破れそうなのをあなたにあげたのではないわ」 |
| 一年前、鳥村は、受け持ちの患者が便秘に苦しんでいるのを知り、肛門から 指を入 |
| れて、便を摘出しようとしていた。 |
| 《鳥村は、騎子から手渡された薄いゴム手袋を装着して、慎重に指を挿入した。 思い |
| のほか硬い、大谷石のような感触が指に伝わった。 指に引っかけて取り出そうとした |
| とき、折り曲げた指先の触感が変わり、爪に何かが挟まる感じがした》 |
| 奥様の声がする。「南斎が戻りました」 |
| 「待たせて申し訳ない。ビーフカレーでも食べて行き給え」 |
| さあと音を立てて天の川が小生の体に流れ落ちるようであった。 |
参考文献:雪国 |
にごりめ |
| 顔面にできる白い斑状の皮膚病変を「はたけ」と云った頃の物語であるらしい。 |
| 作者は樋口双葉という明治時代の名文家である。 明治の医療事情を知る貴重な資料 |
| でもあり、現代にも通ずるものもあるので紹介する。 赤尾文庫より復刻。 |
| 大病院の皮膚科外来の描写で始まる。 |
| 《回れば大門の看板いと大きけれど、皮膚科の文字の小さきは医師が藪だと人ごとに |
| 云ふめれど、さりとは思ひのほかなるもの》 |
| 若くして夭折した天才作家である。さすがに名文である。 |
| 待合室で「はたけ」を患った信之と録之介が顔を合わせる。これから女医の村佐紀 |
| の診察を受けるのだ。二人は診療を待つ間、お互いの《はたけくらべ合ひ》大きさや |
| 病歴の長さを競いだし、そのうち罵り合いとなり |
| 《俺を誰だと思ふ、信之だ、ふざけた真似をして後悔するなと頬骨一撃、なにたゞは |
| 置かぬと撃つやら蹴るやら》 |
| という本格的喧嘩になるのだが、村佐紀が |
| 《これお前がたは他所よそでおやり、ここは私が働き所、お前がたには指でもさゝしは |
| せぬ》と、二人を鎮めて診察となる。 |
| 《僕は顔が所々白くなつてしまつてどうしやうかと思つてゐる、さうだろう信さんに |
| 疥癬かいせんとはたけは似合はないわと村佐紀は後ろを向いて軟膏をこねるに心つくすと |
| 見せながら胸はわくわくと上気してきぬ、 はやくしてくれなとふいに声をかくる者 |
| のあり》 録之介がしびれをきらしたのだ。 |
| そそくさと軟膏を手渡して、村佐紀は録之介の診察にかかる。 |
| 《おとなしく仰向けたる頬のあたり、所々色白くぬけおり、顔を近づけて見るに白斑 |
| わづかに盛りあがりて、こすると川魚の鱗の如きもの剥がれ落ちぬ》 |
| 信之はそんな二人の様子を見ていて好きあった仲と誤解し、そっと帰ってしまう。 |
| 二人は気付かずに、剥がれたものにパーカーインキ加苛性カリをたらして顕微鏡で見 |
| る。 |
| 《録ちゃんごらんな、こんな菌がお顔に付いてゐたのさと振りかえるに、録之介顔を |
| 赤くしておいらこんなもの飼ふてゐたのかと、自分も覗き込んで途方にくるれば、録 |
| ちゃんこれは癜風でんぷうといふもので今私が軟膏を作るから》と特別製の軟膏を作る。 |
| 《あれ信之の薬と違ふねえ、さつきしみじみ見比べたらおいらの病気と寸分同じに見 |
| えたと言はれて、思ひもかけぬことなれば村佐紀は胸をどつきりとさせて・・・》 |
| 信之が密かな想い人だったために病変を見る目がにごったのだろうか。すぐに追い |
| かけて呼び戻しに行く場面でこの物語は終る。 |
《看護婦に何も言はず、二人は診療室よりかけ出しぬ。のちのことしりたや》 |
| 好きな人の病変をよく観察できないとは純情である。実は、小生もそのきらいがあ |
| るので、そういう場合は他医へ紹介することにしている。 |
| *疥癬というのはヒゼンダニによる性感染症ということですが、寝具でも感染します。とても痒いです。 特に股の部分が。それで、二枚目には相応しくないと、村佐紀は思ったのでしょう。 はたけなどの白く見える病変は色素細胞の異常とか、真菌(かび)の寄生とか、いろいろあるんです。 皮膚科のドクターの詳しい診察を受けてください。但し、恋愛感情を伴わないドクターにね。 癜風というのは真菌なんです。 挿し絵を見たい方は、ここをクリックしてください。
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