医学怪文書大全〜純文学の館〜

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                   医者失格
                                                                         1999年11月(大全その20)

 《 私は、その男の胸部X線写真を二葉、見たことがある 》
 『医者失格』の「はしがき」の冒頭である。作者は多剤治という医者らしい。一葉は
骨格しか写っていず、《 私はこれまでこんな不思議な写真を見た事がいちども無かっ
た 》そうだ。 二葉は全体的に白っぽくぼんやりとしており、《 私はこれまで こんな
不思議な写真を見た事が、やはり、いちども無かった》 そうだ。
  単に、片方は電圧のかけすぎで、後の方は電圧が低すぎただけだと思うのだが。
  小生はこの本を紹介するのを迷っている。  批判的に紹介すると、熱烈な多剤ファン
に恨まれることになるのは目に見えている。 またアンチ多剤には興味がないだろう。
    しかし、 多剤の心の奥底にまで照射した『医者失格』は もっと広く読まれるべき
ものと思う。
  《 恥の多い診療を行ってきました 》
  「第一の手記」の冒頭もまた衝撃的だ。
  《 自分は田舎に生まれたので、X線写真は、単に診療上の気のきいたサーヴィスと
思っていました。   のちにそれはただ病変を知る 実利的な写真にすぎないのを発見し
て、にわかに興が覚めました 》 なるほど、失格かもしれない。
  しかし、多剤は真面目な診療をし、患者の信頼も篤く、名医として知られている。
その彼が内面では、様々な矛盾や葛藤に悩まされていたのを この本で知ることができ
る。
「第二の手記」で、多剤は酒に溺れる。 不眠に悩まされ、睡眠薬も常用するようにな
る。 ついには鎮痛剤、鎮暈剤、下剤など多剤併用状態に陥る。
  多剤の多剤服用の原因は何か。患者のためにと思って行った診療行為を「過剰診療」
「薬漬け・検査漬け」と非難されたり、 レセプトを減点されたことだろうか。
  確かに 多剤には多剤投与例が多いが『医者失格』を読むと、そればかりではないこと
がわかる。  多剤は 《怜悧狡猾の処世術》 を嫌ったのだ。
 
 この書物を書き綴った多剤を小生は直接には知らない。 他の作品も 『歩けメロン』
くらいしか読んでいない。ただ、多剤の知人で、ある喫茶店のマダムを小生はちょっと
知っているのである。 十年ぶりにある会合で再会し、互いに大袈裟に驚き、「あなた
は、しかし、かわらない」「いいえ、もうお婆さん。あなたこそお若いわ」などと
おきまりの挨拶をかわしているうち、ふとマダムは口調を改め、あなたは多剤治が好き
だったかしら、と言う。そうでもない、と答えるとハンドバッグから一冊の本を取り出
し、小生に手渡し「お仕事のお役に立つかも知れませんわ」と言った。ひとから押しつ
けられた本は読めないたちなので、その場で返そうかと思ったが 『医者失格』という
題名に惹かれて読むことになる。
 会合が終わり、別れ際にマダムは言った。
「私の知っている多剤ちゃんは、とても素直で …… 神様みたいな いいお医者さんで
した」

*参考文献:人間失格
   医学怪文書大全〜純文学の館〜26

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                   仮面の酷薄
                                                          2000年5月(大全その26)

 《いきなり慎みのない話題からはじめることはどうかと思われるが、説子はまだ
三十歳でありながら、 まことに 歯科医としての技能と官能の天賦にめぐまれてい
た。》
 この書物は、たいへん名医という評判の歯学博士・藤井説子の独創的な歯の治療
方法の紹介と、日常を綴ったものである。
 著者は耽美的作家として有名な二島田紀夫で、彼女に半年間密着取材して書きあ
げたらしい。深長文庫。
 《説子の技術はまことに洗練されていた。会話には機知が欠けていたが、やさし
く、口の中ですばやく廻転する指先をみれば、彼女の熟練の技量を察しただろう》
  彼女は不言実行のタイプらしい。治療行為の一部を紹介する。
《その患者の口腔粘膜は決して豊満ではなく、樹脂が流れて固まったように不機嫌
に歯根をつまんでいる。 にぶい暗赤色の歯肉を見ると、ここに自分のなめらかな
自足した唇で接吻するという空想にとらわれ、そのたびに説子の指先の行為は優雅
さを増した。》 彼女の人気の秘密はここにあったのだ。
 《他の医師が治療するときの醜いほどにゆがんだ表情の患者を、説子は理解がで
きなかった。あんな表情は嘘なんだわ、芝居をしているんだわ、と彼女は思った。
説子がダイアモンドバーを高速回転させると、患者は エナメル質を削られながら
いつも恍惚の表情を浮かべるのだから》 小生も診療の予約をしようかと思う。
 《説子は自分の技量に十分矜持を持っていたが、自分の能力については 誇大に
考える傾きを持たず、それが彼女の美質であった。とはいえ、説子の患者に女性が
殆どいない理由を自分で詮索することはなかったが。》 何故か女性には不人気で
あったらしい。
 このあと二島自身が彼女の診療を受けるくだりがあるので紹介しよう。
 《女医が院長というのにふさわしい清潔な待合室で、書棚に無造作におかれてい
た『ドルジェ伯の舞踏会』を読み始めたとき、ドアが開いて「どうぞ、おはいりに
なって」と説子が言った。》 ドルジェ伯ってどういう本なのだろう。
 《間近に迫る節子の髪の匂いと、口腔を見つめる目のうるみが、筆者の視床下部
を覚醒し、治療の痛みは官能のそれに変化するのを自覚したのである。…後略。》
 二島は取材の最後の日に、初めて診療室以外の場所で説子と会う。あるホテルで
食事をする場面でこの『仮面の酷薄』は終るのだが、マスクをはずした彼女の素顔
をそこで初めて見る。
 《妖しく濡れる瞳を容れた形のいい目のあたりの美しさは、ふだんマスクに隠れ
ている鼻翼から口にかけての凡庸な印象をよりアンバランスに強調した。歯列矯正
用の金属を口元から覗かせながら、顔全体の印象からは不釣合いに横に広がった鼻
が咀嚼の度に動く。説子は筆者を見て微笑んで言った。
「酔っていらっしゃるのね。
すこしプラークコントロールなさらない?」》
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*参考文献:美徳のよろめき。仮面の告白(題名だけ)