医学怪文書大全〜大衆文学の館〜

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                   白ひげ診療譚
                                                                         2002年4月(大全その36)

 《「これにさっき一緒に診た患者の今までの治療歴が書いてある。よく読んで、
お前の考えを言ってみろ」そう云って、養生所の所長、古出来定は新しく入った
登本保に一冊の診療録を手渡した。》
 山田辺五郎という小説家が書いた『白ひげ診療譚』の一節である。医学的にも
含蓄に富んだ名著であると思うので紹介する。古潮文庫刊。
 《保は診療録を一瞥して答えた。
「自律神経失調症です」
「登本、お前は長崎まで行ってシーボルトに何を習って来たのだ」と来定は不快
そうに云った。
「しかし、胸部不快感、眩暈、動悸、手足の痺れ、嘔気が不定期に何度も出現し
ています。全て自律神経系の異常を示しています。」
「お前は、下痢をした患者を診たときに下痢症という診断で満足しているのか。
下痢の原因を探求しないで、どういう治療をするつもりだ。まさか止痢剤を投与
して『よし』とするつもりではないだろうな。」》
 何だか自分にとっても、痛いところをつかれたみたいな気がする。
 《「すると、先生はどういうお診たてですか」
「この患者はお前が一人で担当しろ」と来定は保の問いには答えず「昔から今ま
でのことを詳しく聞くんだ」と云った。》
 それから保はその患者に四時間余りも面接して、症状と過去の治療などを詳細
に問診するのだが、かなり苦労して聞き出している。心身医学療法の点数を算定
しても良いのではないかと考えられる。
 《「あの患者はミュンヒハウゼン症候群であると思います」保は来定の部屋に
入るなり云った。
「その理由は何か」来定が座ったまま云った。
「過去に」保は確信に満ちた口調で話し出した。
「身体的虐待を受けています。そしてあの患者は愁訴に見合う適切な薬剤が投与
されていますが全く無効でした。これは、実際にはその愁訴が無いことを意味し
ています。」保は学会で発表するような口調になっていた。
「複数のランダム化比較試験のシステマチックレビューによりミュンヒハウゼン
症候群に対する個々の対症的薬剤の効果を支持する、良好なエビデンスは見つか
っておりません。**
「お前の脳みそはコンクリートでできているのか」来定はあごの白いひげをこす
りながら云った。「これを飲ませてみろ。小麦とナツメと甘草である。」
「お前が患者の目の前で煎じて、毎日飲ませてみよ。」》
 食べ物みたいである。モノの本によると甘麦大棗湯であるらしい。***

それにしてもいつの時代の物語なのだろうか。時代考証はいいかげんのようだ。

とにかくその患者は間もなく全快する。

 《「ただいま退院して行きました。先生のお蔭です。」と保は尊敬の念をこめて

来定に報告した。
「あの患者の病名は何なのでしょうか。」
「自律神経失調症だ。」
ぽかんとする保に来定は付け加えた。「この養生所はお上が経営している。あの
処方は、ここでは自律神経失調症にしか使用できないことになっているのだ。
従って病名はおのずとそうなる。」》
う〜む、身につまされる。
*赤ひげ診療譚は、黒澤監督により「赤ひげ」として三船敏郎が新出去定(赤ひげ)になり、加山雄三の保本登という配役で映画化されました。Paternalismの権化みたいで現代には合わないとお感じの皆様もおいででしょうが、病気などで気弱になったときに「頼もしい人によりかかりたい」と思う人も多いものです。
 
 
 * 身体的疾患を模倣し、医療機関を渡り歩く症候群のこと。病気を装うのですが、単なる仮病
   ではなく、精神科領域に属する疾患です。

 ** 
ミュンヒハウゼン症候群に効く薬はありません、ということを、学術的に、まわりくどく
   なおかつ、偉そうに言っただけです。

*** 
昔からヒステリーの薬として、一部に有名です。

参考文献:赤ひげ診療譚(山本周五郎)

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101                歯小説の研究
                                                                         2003年9月(大全その38)

 日本の小説はどうも私小説になりがちである。
 国民性の故なのだろうか。
 ところで、日本では珍しい小説の分野に「歯小説」があることは余り知られていない。
 その意味から、羽黒鉄夫の「歯小説の研究」は貴重な本であろうと思うので紹介する。
 歯学社より出版。
 おびただしい数の歯小説が紹介されているので、その中からいくつかを紹介しておく。
 『義歯美人伝』
  三世紀頃の古い本。川で入れ歯をきれいに洗う様子が描かれている。
  主人公は歯美子。作者は不詳。

 『義歯銘銘伝』
  歯の中心がぐらついてしまったとき、いかに対処したかという四十七人の人々の話。
  大臼歯蔵之助が中心人物である。実話と異なるらしい。作者は滝沢金歯。
 『齲歯悲しむ』
  古城を眺めながら齲歯のつらさに涙する話。島崎齲歯村作。
 『歯茎の人』
  歯肉炎を放っておいて、ついに一本も歯がなくなった人の話。
  タクワンでも平気で食するのだという。滑丘ツルオカ小樽作。
 『義歯回生』
  歯茎の人の続編。義歯にして若返り、再婚し家庭人として落ち着いて過ごす晩年を
  描いている。子供も三人ももうける。少子時代の鏡である。
 『義歯母神』
  某宗教団体の宣伝の書。
  この本の印税で大きな菩薩像を建立し、信者を恐れ入らせるのだという。イリヤ出版。

 何だか、ほとんど入れ歯の話ばかりで気が滅入る。
 明るい歯小説を探したら、『白きたおやかな歯』というのがあった。
 なかなかすがすがしい内容で気が休まる。
 《谷川の水で冷やした白玉は冷たい。歯にしみる。》この小説の最後の文章である。
 やはり少し歯科的疾患が潜んでいるようだ。和歌山歩句水作。
 『歯牙の旅』
  白きたおやかな歯の続編なのだが、白玉にしみた歯がその後の旅でどうなったのかが
  綴られている。最後に群馬の榛名湖へ行く。
  《徒然に占ったトランプに赤い血液が落ちた。》という有名な文章で終わる。
  歯槽膿漏になったようだ。
 『歯肉の嘆』
  ある事情で長いこと食事できなかった人が、柔らかくなってしまった歯肉を悲しむ話。
  劉備内真太ウチマタ作。

 歯的戯曲もあり『虫歯の園』が載っている。外国物の翻案であるらしい。
  セリフが少し硬いが、傾きかけた虫歯とその下から生えてくる永久歯の葛藤が、
  良く描かれている。知恵保父作。
 『赤き血のリンゴ』
  かじるたびに赤く染まるリンゴの恐怖をまざまざと描いている。
  後にこの小説をもとにしたマンガが大人気になる。裏輪赤豆レッズ作。

 この他にも
  『白歯ん歯』『義歯も噛まずば壊れまい』『義歯道』『一本のかけ歯』
 など数多く紹介されているが、紙数の関係で割愛する。
 興味のある方は、歯学社へ問い合わせ願いたい。

*この私小説の研究は、某所で原稿用紙に鉛筆で書いたものです。8月号の特集に書いてくれと言われたので。
 しかし、出来栄えには忸怩たるものがあります。
 苦しい駄洒落ばっかり。なにしろ1時間半くらいでやっつけたので、勘弁してください。
 しかし、連想ゲームみたいなのもあり、別の某所で、某歯科医師から
 「また、くっだらないもの書いたろう?」とおほめの言葉をいただき、
 「これ、赤き血のイレブンで、浦和レッズだろう?」と言われたときには、
 とっても嬉しかったのであります。