| 医学怪文書大全〜大衆文学の館〜32 |
完全なる血痕 |
| 終戦直後、ある産婦人科医がミステリー小説『完全なる血痕』を発表し ベスト |
| セラーになったことは、戦中の精神的抑圧と無関係ではあるまい。作者は医学博 |
| 士・伴出辺瑠手。峠出版から一九四七年発刊。 |
| 《薄暗いコンクリイトの壁に、黒いシミが裸電球の薄明かりの中で、ぼんやりと |
| 浮き上がつて見える。生臭い湿つた空気が澱んで居る。》 |
| 冒頭から不気味な雰囲気である。変な臭いがするという匿名の投書があり、保 |
| 健所のドクトル・千恵蔵がこの建物を調査しているのだ。 |
| このドクトルはかなり親切な人らしく、保健所の広報誌の身の上相談の欄で 女 |
| 性からの相談に丁寧に答えている様子も描写されている。 |
| 「私は見ず知らずの男性のおならを嗅いでしまいました。妊娠しないでせうか」 |
| という質問に「そのとき、あなたがその男性と何をして居たかによります。あな |
| たの鼻が男性の尻のすぐそばにあつたのなら、その可能性は大いにあると云わざ |
| るを得ません」と答えたり、 |
| 「私はもうぢき結婚するのですが、男の人がどのやうなものなのか知りません。 |
| 体中毛だらけなのでせうか。心配で眠れません」という相談をうけて |
| 「毛だらけの男も居れば、つるつるの男も居ります。貴女が毛だらけは怖いと お |
| 感じなら、猫を考えて御覧なさい。 可愛い『たま』も 毛だらけでせう」などと |
| いう親切な回答を与えている。 |
| 《あたりを窺いつつドクトル千恵蔵は変装用のアイパッチをはずし、虫眼鏡を 黒 |
| いシミに近づけた。シミは存外に大きかった》 |
| 黒いシミの秘密を暴くべくドクトルは様々に変装し、大活躍する。あるときは |
| 片目の運転手、またあるときは街角の占い師、そしてまたあるときは 刺青の裁判 |
| 官になり、事件の真相に迫る。 |
| 《その建物に幌付きのトラックが横付けにされたとき、ドクトルは運悪く水虫の |
| 皮膚科医に変装してゐた。》素足に下駄といういでたちだったので、足音で 気づ |
| かれてしまう。 |
| 《「いえいえ決して怪しい者じゃありませんよ。多羅尾というけちな医者稼業が |
| 生業なりわいです。 ほら患者にうつされた水虫ですよ」と言い訳すると「邪魔な野 |
| 郎だ。とっとと失せな」と腰のあたりを蹴飛ばされ・・・》など、苦心惨憺し、つい |
| に 真相のヴェールを剥いだのである。 |
| 真相解明した後の某夜、再び その建物の中に佇む ドクトル千恵蔵の姿があっ |
| た。長い苦闘の時は終わったのだ。しかしドクトルの顔に安堵の色はなく、深い |
疲労が刻み込まれている。 |
| 《無数の黒いシミがほの暗い灯りに浮び上がつた。黒革の手袋を脱いで、指でそ |
のシミのいくつかに触れたドクトル千恵蔵は深いため息をついた。昼間見た大量 |
| の殺戮。ほとばしる血飛沫。断末魔のうめき声。しかし、ここは目をつぶらなけ |
| ればなるまい、とドクトルは思ふた。ここは都衛生局の許可証があるのだから。 |
| そして街には飢えた人々が居るのだから。 |
| あのつぶらな瞳、あの涎を垂らした口を一生忘れないでおかふと考えながら、 |
| ドクトル千恵蔵は万感の想いをこめて黒いシミを眺めた。 |
| 牛が元気だった証のこの黒いシミ……完全なる血痕を》 |
| *完全なる結婚って、当時かなり爆発的に売れたらしい。ロングセラーでもあり、私でも名前は知っていました。後に同名の映画が公開されましたが、もしかしたら見たかもしれません。1968年製作です。でも、バンデベルデの原作を映画化したのでしょうか? *ドクトルチエコさんも有名でしたね。その方面の相談ごとでね。 *片岡千恵蔵さんも若い方はご存知ないでしょうね。せりふまわしが独特でした。遠山の金さんと いえば、千恵蔵さんでした。最近じゃ松方さんですがね。 さし絵を見たい方はここをクリックしてください。 *参考文献:完全なる結婚(バン・デ・ベルデ) |
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神経かさぶたがふち 2001年6月(大全その34)8月up |
| 戸棚を整理していたら奥の方にかび臭い本を見つけた。どうも怪談の本らし |
| い。湿気の多い季節には相応しいので紹介する。作者は三遊間延長という聞いた |
| ことのない人物だ。公団社刊。 |
| 《このところ手首が痛みますので薬箱をかきまわし、貼り薬をようよう見つけ出 |
| した豊志賀。メントールの匂いをうっとりと嗅ぎます。セロファンをめりめりっ |
| とはがして・・・》 |
| 膏薬を一週間ばかり貼りっぱなしにしていたところ痛みが軽快する。 |
| 《ようやく三味線を弾くことが出来るようになった豊志賀、弟子の新左衞門に稽 |
| 古をつけようとしましたが、白い膏薬がどうも野暮ったい。 |
| 「新さん、ちょっとはがしておくれな」 |
| 「師匠、あっしで良いんですかい。」 |
| さっそくはがしにかかる新左衞門ですが、べったりとはりついた膏薬はなかな |
| かとれません。ちょいと伸びた小指の爪で端のほうを引掻いておいて、つまんで |
| はがすと「ぎゃー」っという恐ろしい悲鳴。 |
| 豊志賀の皮膚が、膏薬の形なりにベロベロと四角に剥がれてしまいました。ポツ |
| ポツと赤い粒が白い皮下組織の表面に浮き出てきます。》 |
| なんとも痛そうである。数日の後、診療所へ出向く。 |
| 《看護婦は無造作に、包帯をとると、傷口にあててある脱脂綿をピンセットでつ |
| まみました。 |
| 「脱脂綿を傷口につけちゃいけませんわ。ほら、細かいケバケバがくっついて取 |
| れないでしょう」 |
| 赤い糜爛にこびりついた綿の繊維を一つ一つ取り除くたびに、痛みが血と膿汁に |
| 混ざってベロベロとわきあがってきます。 |
| 「不潔にしてるのね。いいヒトに嫌われてよ」 |
| 看護婦はやさしくオキシフルをふりかけました。》 |
| 糜爛は、数週間後にはこげ茶色の痂皮に覆われる。ようやく治りかかったらし |
| い。さっそく三味線を持ち新左衞門相手に稽古を再開する。 |
| 《「姐さん、すまねえ」 |
| 「なあにいいのさ。新さん、よくおいでだねえ」 |
| 稽古が佳境に入ろうかというとき、袖口からのぞく包帯がぐっしょりと赤く濡れ |
| てきました。 |
| 「姐さん、血ですぜ」 |
| 手首のカサブタのふちから血が染み出しているのです。 |
| この後、豊志賀が殺害されて新左衞門にたたるという、かさぶたがふちの序で |
| ございます。》 |
| 続き物らしい。残念ながら続編は持っていない。どなたか所持しておられるよ |
| うなら、御一報いただきたい。 |
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*こいつあ、どうも失敗作のような気がして、アップしなかったのですが、 ちょっと見たいというお方がありましたので、遅ればせながらアップしたわけです。 「師匠」といっていた新さんが、後半から「姐さん」と呼び方が変わるところなんか、芸の細かさと、思ってや ってください。 *参考文献:真景累ケ淵(三遊亭圓朝) |