| 医学怪文書大全〜大衆文学の館〜28 |
深夜の診察室 |
| 枕元で電話が鳴る。深夜の1時を過ぎている。 |
| 傍らで猫が背中の毛を逆立てて唸り声をあげる。 |
| 喘息発作がひどいのだと言う。 |
| 大きな病院へ行くように言おうと思ったのだが、寝ぼけていたので、つい |
| 「じゃあ診ます」と返事してしまった。 |
| 真っ暗な診察室のドアを開けたとき話し声がしたような気がした。 |
| 電気をつけても誰もいない。ただ、妙な雰囲気が漂っているのは感じた。 |
| ほどなく玄関の開く音がした。 |
| 「・・・ごめんくださいまし・・・」さっきの電話の主だ。 |
| ようやく小康を得て患者が帰宅するころには、小生の頭脳は完全に覚醒して |
| しまった。それにしても、先ほどの誰もいないはずの診察室での話し声のよう |
| な物音はいったい何なのだろうか。 |
| 眠れそうにないので、ベッドで読もうと適当な本を探した。こういうときは |
| 難しい専門書に限るのだが、『昨日の治療指針』の横に『深夜の診察室』と |
| いう本を見つけた。 |
| 今まで読んだ事がない本だ。看護婦か誰かが忘れたのかもしれない。 |
| ベッドに戻って、さっそくひもといてみる。 |
| 《夜中の診察室はのんびりしていて居心地がいいねえ》 |
| 何なんだろう、この本は。独りで喋っているように書いてある。 |
| 《お前さんはずいぶんと背が高いようだが、何をしておいでだえ? え、点滴 |
| をぶらさげますって、そうかいそうかい、さぞ大変なお仕事でござんすねえ。 |
| 背が高いからって、そう人を見下さなくたっていいじゃあないかね。え、ちが |
| います、看護婦が高くしたまんま帰っちゃったんですう? そうかいそうかい |
| しかしなんだね、何でも人の所為にしちゃあだめですよ。 |
| おいおい、そんなところでとぐろ巻いてないで、こっちへ来なさいよ。 |
| ええ? 院長の汚い耳に押し込められて嫌だからとぐろ巻いてるんですう? |
| 何を言ってるんだあね。お前さんは胸とか背中に押しつけられるだけだろう |
| が、こっちは頭を踵とか膝かぶにいつもぶつけられてるんだ。自慢じゃあない |
| が、おまけに先っぽを汚い足の裏にこすりつけられるんだぜ。こないだは水虫 |
| うつされちゃったい。もっとも水虫のほうで嫌がってどっかへ行っちゃったけ |
| どね。たぶん、院長の手だね、行き先は》 |
| ふ〜ん、打診器が聴診器としゃべってるわけだ。なかなかにおしゃべりな |
| 打診器だとみえて延々と続く。 |
| 《そこの隅っこで寝そべってるの、ちょっと起きなよ。なんだい若いくせして |
| セロハンなんかにくるまれちゃって、だらしねえぞ。 |
| え? 清潔を保ってるんですう? 何言ってるんだね。他人の口の中へ入れら |
| れちゃうんだろう。いくら使い捨てだからって、それでも医療器具かね、え? |
| 俺は安いアイスクリームのバーかと思ったよ》 |
| 口の悪い打診器だ。これじゃあ舌圧子が泣いちゃうぞ。道具は使い主に似る |
| というから、院長の人柄がわかる気がする。 |
| 《あれ、そこで泣いてるのは誰だい? え? 皆さんがうらやましいって? |
| わたしなんか、尻の穴に突っ込まれて大変なんですう? あんた、誰なの?》 |
| ……朝、目覚めたら『病院備品カタログ』が枕の側にあり、バビンスキー式 |
| 打診器のページが開いてあった。 |
| 打診器というのはアキレス腱とか膝蓋腱とか二の腕とかをはたいて反射をみるやつですね。 で、反対側は細くなっていて、足の裏の外側を強くこすったりします。で、親指がそって、他の 指が外側に開くと、これは異常で、バビンスキー反射が陽性と診断されます。ところで、カタロ グにはバギンスキー式打診器って書いてありました。きっとそうなんでしょうね。 舌圧子って扁桃腺なんか見る時のへらですね。最近は使い捨てのがあるんです。挿し絵を見て 下さい。 この『深夜の診察室』はもっと短いんです。大幅に書きなおしました。はじめの部分を。 さし絵を見たい方はここをクリックしてください。 *参考文献:なし。 |
夢獣狩り・舌痛聖母 |
| ある有名な女流作家が「面白い」と推奨していた夢枕莫山の小説のなかに、 |
| 医学的に興味深いものがあるので紹介しよう。 |
| 『夢獣狩り・舌痛聖母』(省電社刊)である。 |
| 《漆黒の部屋であった。 |
| 微かな痛みを感じて小夜子が目を開けた。 |
| ざわっと背筋の毛がそば立った。 |
| 口腔内が粘る。 |
| ノルアドレナリン作動性神経線維が興奮しているのだとぼんやりと思った。 |
| 意識のレベルが徐々に上昇する。 |
| 痛みは舌神経で起きていると小夜子は感じた。 |
| 自己の肉体に生まれつき鋭敏な感覚を持っている女であった。》 |
| 深夜に舌の痛みを感じ、目が覚めるらしい。 幾晩も痛みで目覚めるため、 |
| 小夜子は口腔外科、耳鼻咽喉科など幾つもの医療機関を受診するが、異常は |
| 無いと言われる。しかし、ある耳鼻科医から舌に赤い数個の病変を指摘され |
| 「炎症性変化による痛覚亢進」と診断され鎮痛消炎剤を処方される。薬を服用 |
| した夜の描写を抜粋する。 |
| 《ぶちん。 |
| 闇の中で何かが切れるような音がした。 |
| 口腔内が液体で満たされるのを感じた。 |
| 口唇がとがる。しゅっと、液体が宙にしぶいた。 |
| ……血だ。 |
| 赤紫に腫れた舌が、別の生き物のように小夜子の口の中から這い出てくる。 |
| ぎゅろっ… |
|
舌深静脈が切れ、舌動脈も穴が開いたことを小夜子は感じた。》 |
| 救急車で病院に運ばれ外科的処置を施されるが、彼女の病の原因は依然不明 |
| のままだ。その後も数々の危機があるのだが割愛して、原因が解明される部分 |
| を紹介しよう。 媚空(びくう)という名の医師を紹介されて訪ねる場面だ。 |
| 《医師は三十を超えている筈なのに、少年にしか見えない。小夜子は戸惑いを |
| 隠せなかった。 |
| 「私に何をお望みですか」 |
| 「もとは高野山のお坊さんだったんでしょう」 |
| 「でも、今は医者です。あなたのいう祈祷の類はお断りです」 備空は表情を |
| 変えずに続けた。 |
| 「通常の診療をお望みなら拝見しましょう」 |
| 舌の傷に視線を感じる。美しい目…と女は思った。 |
| 歯を細い指先が触れた。 |
| 媚空は少女のように微笑んで女を見た。 |
| 「あなたは焼肉が好きですね。特にタンシオが。 しかも、ここ一年くらいは |
| 食べてない。 あなたのお子さんが嫌いだからでしょう」》 |
| タンシオを食べる夢を見ながら、小夜子は自分の舌を噛んでいたのだ。鋭敏 |
| な感覚を持っているため、歯が微かに触れる段階で痛みを感じて目覚めていた |
| のだが、鎮痛剤のため感覚が鈍り、ついに深く傷つけてしまったのだという。 |
| 《「タンシオを毎日五人前ずつ食べ続けなさい。一月後には治りますよ。 |
| …見るのも嫌になるでしょうからね」 |
| 媚空は涼しい顔で言った。》 |
| 名医である。小生も見習わねば。 |
| 田辺聖子が面白いと何かに書いていたのを読んで、夢枕獏にはまった時期があったっけ。 でも、いつまでも終らなかったり、長かったり、違う物語とリンクしてたり、そんなこんなで しばらく読んでなかったのですが、久しぶりに読み返すと、なかなかに面白い。 彼は、詩人である・・・と思いました。 神経線維・・・繊維が正しいのですが、医学界では線維と書くんです。 |