医学怪文書大全〜演芸その他の館〜

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                  医生心得帖
                                                                         1998年8月(大全その5)

 神聖なる医療に従事している我々は、はたして人格的にも、他者から非難
されるようなことが無いと自信を持って言えるだろうか。小生にはとても無
理である。そこで、四股聴診器を発明し、大会社を興した企業家で人格者と
しても有名な杉下松之助の著した『医生心得帖』を読むことにした。*注
 目次を読むだけでも心が洗われるようである。「感謝する心」「怖さを知
る」「日々の体験を味わう」「熱意と誠意」等々。
「まえがき」にはこの本を書くに至った事情が述べられている。杉下氏は今
年百四歳になるのだそうだが《未だに修行途上である》という。彼の主宰す
るPHSという雑誌に連載していた文章を《近頃の世の乱れに慨嘆し》一冊
の本にまとめたのだそうだ。
 まず「医師としての成功」を紹介する。
《昔に比べ医学が発達したにもかかわらず、患者の不満や不信が多くなった
と言われます。私はその基本的な要因の一つとして、どうも人間を機械とみ
なして、部品や性能といった細密な部分に重きを置きすぎていると思うので
す。自らの天分を生かした洞察力の大切さが忘れられている傾向が少なから
ず見うけられるようです。医師としての成功は、病態の解明は勿論、それよ
りも患者さんに悩みの解消や生きる喜びを味わってもらうことにより、一層
高いものになると思うのですが、どうでしょうか》
 心が充分に洗われたところで「辛抱すること」を読んでみよう。若い頃、
苦心して四股聴診器を発明した話である。
《血流の方向は三次元的方向と時間的方向とがあります。これらを同時に知
れば、患者さんの心臓の動きが手に取るようにわかる》と考え、ついに、採
音部が四つに分かれているヤマタノオロチが半分になったような聴診器を考
えつく。松之助翁はこう続ける。
《成果があがらなくとも辛抱して努力を続けていくうちに成功の道に進むこ
とができる、といったことが多いと思うのです》
 聴診器の使い勝手は「怖さを知る」に述べられている。 患者さんの 胸の
中央に一つの採音部を置き、左右の側胸部にもそれぞれ採音部を、さらに背
部にも置き《看護婦さんの手も借りて押さえてもらい、心静かに心音を聴け
ば、私の頭の中で、心臓の動き、血流の順逆が自ずと立体的に組み立てられ
ます》
 小生も以前購入したのがあるので、机の奥から引き出して使用してみた。
頭の中で組み立てるのは難しいもので、四方からの心音が頭の中で渦をまき
耳鳴りがしてきた。 おまけに、小生と看護婦の腕が入り組んで、 たいそう
面妖なことである。しかし翁は言う。
《成功するまで続けることだと思います。それが、よりよき医者をめざすた
めの大切な秘訣といえるのではないでしょうか》
*注:松下幸之助の二股ソケットを発明した話は今でも有名なのだろうか。 
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*参考文献:人生心得帖(松下幸之助)
   医学怪文書大全〜演芸その他の館〜24

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                  回虫記
                                                                         2000年3月(大全その24)

 この本は、余りに擬人化しすぎているということで、当時の国際寄生虫学会
では全く問題にされなかったらしいが、日本ではなぜだか根強い人気がある。
葉撫瑠千里博士の長年苦心の著書である。深長文庫に収録。
 書き出しは《私、もうじき死ぬんです》
 学術書に相応しいとは言えない。
《 白菜のしわしわの中にいたのはかすかにおぼえてるんです。その前はよくわ
かんないんです。匂いだけは鼻についてますけど……》
 回虫のモノローグである。この後、水で洗い流されそうになったり、重い石
の下敷きにされたり、俎板の上で包丁で切られそうになったりしたあげく、人
間に食べられてしまう。
《ふと気がついたら私、卵じゃなくなってるんです。変身しちゃたみたい》
 その後《狭くてきついのが好き》になり、胆管、肝臓、静脈を通って心臓か
ら肺、気管支と回虫の大冒険は続くのだが割愛する。気管から食道を通って再
び小腸に戻ったあとの部分を紹介しよう。もう彼女も大人になっている。
《なんだか一人でさびしかったんです。それでちょっと胃袋まで遊びに行った
んです。そしたらわさびと醤油のおいしそうな匂いがして、すぐにイカのお刺
身が入ってきたんです。はじめは気がつかなかったんですけど》実はアニサキ
スが刺身にまぎれて胃に到着する。アニサキスは居心地が悪いのか、胃壁に食
いついてしまう。
《 そんなに噛み付いちゃ痛がるわって注意したんですけど、止めないんです。
そのうち宿主が苦しみ出して救急車を呼んじゃったんです》
 病院に到着すると担当医が名医だったとみえて、ただちに胃内視鏡を施行す
ることになった。
《食道の方から光が見えたんで、私、あわてて十二指腸まで逃げたんです。遠
くで「いたいた、やっぱりね」なんていう得意そうな声が聞こえてきて……。
私、そうっと、胃の出口の丸い穴から顔を半分だけ出して覗いてみたんです。
 キャッ、マジックハンドみたいなのでアニサキスのお兄ちゃんがつままれて
。私、恐ろしくてふるえちゃったんです。
「ほうら、これですよ、原因は」なんていう嬉しそうな声が聞こえてきて…。
 もう終わったんだと安心したらまた声がして。「ところで、さっき幽門から
回虫が一匹こっちを覗いてるのが見えましたが、あなた、飼ってるんですか」
「と、とんでもない」
「じゃあ虫下しを処方しますから」
 私、見られてたんだわ。くやしい》
 この『回虫記』の結びは
《体がしびれて気持ちがいいんです。ああ、気が遠くなりそう》。
 確かに回虫の生態はわかりやすいが、下肥を使っていた時代に経内視鏡的に
アニサキスを取り出せたのであろうか、疑問も残る。
 しかし、葉撫瑠博士はどうしてこのような女性らしき会話体で書いたのだろ
うか。どこかの作家が代筆したという噂もあるようだが。
注:アニサキスは本来イルカなんかに寄生する生物で、人間の中では暮せないのです。それで人の中に入ると、苦しまぎれに胃袋や腸の壁にくいついてしまうらしい。腸を破ってあっちこっち這い回り、人もアニサキスも苦痛にのたうちまわることになる、こともあるというわけです。アニサキスは糸みたいな細い15ミリくらいの虫です。刺身やシメサバなんかに小さく丸まっていてよくわからないうちに人が食べちゃうんですね。アニサキスにとっては大悲劇です。生きていけないんですから。
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*参考文献:「内科診療の実際」(ファーブル昆虫記:題名だけ)